登録医会

 

2016.10.14

市場原理と医療:米国の教訓から学ぶ

日 時 平成28年10月14日(金) 午後7時
会 場 仙台勝山館
演 題 「市場原理と医療:米国の教訓から学ぶ」
演 者 一般財団法人 大原記念財団 大原綜合病院 内科部長 李 啓充 先生

日本の医療制度の特質をひと言でまとめると、「非常に安いお金で、世界一の成果を上げてきた効率の良さ」となるだろう。たとえば、国全体の医療の成果を「長生きの度合い」で見たとき、日本の高齢化率(総人口の中で65歳以上の人が占める割合)23.02%はOECD加盟34ヶ国中第一位であり、日本は、世界のどこよりも長生きができる国となっている。

一方、高齢者は若年者と比べるとどうしても有病率が高く、OECD加盟国の平均で見たとき、高齢化率の高さと医療費支出(対GDP比)の多さとの間には正の相関が成立する。しかし、日本は例外で、高齢化率がトップであるにもかかわらず、医療費は対GDP比9.5 %(OECD加盟国中10位)と極めて低く抑えられている。

高齢化率と医療費支出が正比例するという法則のもう一つの例外が、医療を市場原理に委ねてきた米国である。高齢化率は13.09%(OECD第28位)と1990年代初めの日本のレベルにとどまっているにもかかわらず、医療費支出は対GDP比16.4%とダントツの第1位であり、極めて効率の悪い医療を展開しているのである(数字はいずれもOECD調べ、2010年)。

「効率の悪さ」に加えて、医療を市場原理に委ねたときの弊害の第二は「アクセスの障害」である。日本で医療へのアクセスが憲法で定められた「生存権」の下で保障されているのとは対照的に、米国では、医療へのアクセスは「権利」ではなく、「特権(お金を払った人だけが受けられるサービス)」となり、「病気になってもお金がないので医療を受けられない」という悲惨な事例が後を絶たないのである。

近年、日本でも、「米国式に、医療に市場原理を導入し、『公』(保険診療)の部分を減らして『民』(保険外診療)を増やせ」とする主張が声高に叫ばれているが、効率の悪化を招いて医療費支出がさらに増大するだけでなく、国民が医療にアクセスする権利が損なわれる危険があることは強調されなければならない。

 

2016.06.04

いのちについて ~小児科医として~

日 時 平成28年6月4日(土)
会 場 ホテルメルパルクSENDAI
演 題 「いのちについて ~小児科医として~」
演 者 聖路加国際病院 顧問 細谷 亮太 先生

 

緩和医療は、終末期医療(ターミナルケア)の柱とも言うべき治療法です。その当否は、ひとえに医療者と患児の家族、そして患児本人の理解と合意の存否にかかっています。患児や家族が前に述べた実験的医療や代替医療を希望しているのに無理矢理説得して緩和医療を行おうとしても、うまくいきません。私たち医療者はまず、医師・看護師・ソーシャルワーカーなどから成るチームにおいて話し合い、医療者側の意見を統一させます。そのうえで、家族と今後の治療のさまざまなオプションについて話をします。

終末期医療の話をすると、家族は医療者から見捨てられるのではないかという不安を抱きます。そのように考えるのも道理かもしれません。すなわち、数のうえではずっと多い成人のがんの領域では、患者さんが、がんセンターなどの先端医療施設にかかっていても、標準治療を受ける要件(治療への参加基準、eligibilityといいます)

を満たさなくなると、「私たちの施設は標準治療を受ける患者さんのために存在しているので、あなたはもはや私たちの施設では対応できません。家の近くにある、がんを専門としない施設に行くか、あるいはホスピス(主にがんの終末期医療を専門に行っている施設)に移ってください」などと言われることが多く、小児がんの患者さんの家族もそのような話をよく聞いて知っているのです。

緩和医療では本人の生活の質(QOL)を徹底的に重視することになります。すべての決定は患者さんの都合でなされることになります。通常、化学療法などの積極的治療は放棄されますが、たとえば腫瘍が大きくなりすぎてQOLを落としているような場合には、症状を軽減させることを目的に化学療法が行われることもあります。また、骨への転移により痛みがひどい場合には放射線照射が行われることもありますし、胸水により呼吸が苦しくなった場合には胸に針を刺して水を抜く、といった外科的な処置が必要になることもあります。さらに貧血がひどくて疲れてたまらないときには輸血も行われます。このように、緩和治療と言っても一概に積極的な手段を止めてしまうわけではありません。

とは言え、緩和医療でもっとも大事なことは痛みを取ることです。従来、国内ではモルヒネなどの麻薬は積極的に用いられていませんでしたが、麻薬こそは緩和医療の枢要です。WHO(世界保健機関)の定めた小児に対する鎮痛薬の投与指針が示され、最近では国内でも麻薬を含む鎮痛剤が惜しみなく使えるようになってきたのは、終末期の患者さんにとってもまさに福音と言ってよいと思います。麻薬はさまざまな投与方法も可能になっており、経口投与、点滴投与、座薬、皮膚への貼付(パッチ)など

何でもあります。作用時間もさまざまで、痛いときに飲んですぐに効くものもあれば、一日に二回だけ飲めばよいというものもあります。

医療者は、患者さんのみならず家族の支援もしていかなければなりません。子どもの死という、通常では考えられないような運命を前にしている家族は、まさに未曾有の困難に直面していると言えます。医療者のみならず、病院の保育士、学校の教諭、チャイルドライフスペシャリスト、宗教家などを巻き込んだ包括的なケアを、不断に協議しながら展開させていく必要があります。

まだ国内では実践例が少ないものの、在宅医療の道も探られるべきです。患児にとって最も落ち着く場所は、やはり自分の家を除いてはありえません。訪問看護制度を用いて在宅死を迎えた場合の満足感はとても高いことが知られています。

 

2015.10.13

ロボットによる月惑星探査への挑戦

日 時 平成27年10月13日(火) 午後7時
会 場 仙台勝山館
演 題 「ロボットによる月惑星探査への挑戦」
演 者 東北大学大学院工学研究科 航空宇宙工学専攻
教授 吉田 和哉 先生

 

私は、小学校時代にアポロ11号の月面着陸をリアルタイムで見ていた世代である。大学院在学中「宇宙で活躍できるロボットを開発する」というテーマに出会い、以来30年間にわたって宇宙ロボットの研究を行っている。

1995年に東北大学・航空宇宙工学専攻の助教授として着任し、新しい研究室の立ち上げを行った。初期の頃には学生とともに米国ネバダ州の砂漠を駆け回るロボットの実験などを行ってきた。それがその後の研究活動の原点となった。また、コミック「宇宙兄弟」のエピソードとしても採用された。

2003年に打ち上げられ2010年に無事地球に帰還した小惑星探査機「はやぶき」では、小惑星イトカワの表面へタッチダウンしてサンプルを採集する技術開発に参加し、成功へと導く貢献を行った。2011年3月に発生した東日本大震災に際しては、宇宙探査ロボットの技術を災害現場など人が近づけない危険な場所で活躍するロボットへ応用し、原発対応ロボット「クインス」の開発に貢献した。放射線の強い環境ではロボットは正常に機能しないのではとの声もあったが、衛星開発の経験を活かすことができた。宇宙環境も放射線が強い環境であり、そのような環境での電子機器の耐性を評価するノウハウが役立った。

研究室では独自の超小型衛星を開発することへの挑戦も行っており、特に、2014年に打ち上げられた「雷神2」では、地上分解能5mという高解像度のカラーやマルチスペクトルの画像撮影に成功するなど、50kg級超小型衛星としてクラス世界最高性能の成果をあげつつある。

2010年より、探査ロボットを月面に送り込む国際レースであるGoogle Lunar XPRIZEへの挑戦を開始し、日本からの唯一の参加チーム「HAKUTO」(ハクト、白兎)を技術開発リーダーとして率いて挑戦を続けている。
ロボットには自律性が必要であるが、完全自律である必要はない。危険回避のような基本動作や、人がやりたいことをアシストする機能が備わった上で、人からの指令(監督)に従順に従うロボットが望ましい。月惑星のような人が行くことができない世界を探査するロボットの遠隔操縦でも、手術支援ロボットの操作においてもこの考え方は同じである。

月をめざすチーム「HAKUTO」は、2016年から2017年ごろに月探査ロボットを打ち上げることを目標として開発を進めている。開発の様子は、http://team-hakuto.jp/ 等でもご紹介しているので、ぜひご覧いただきたい。同ページ内で「プロジェクトに参加する」のボタンを押していただけると、「サポーターズクラブ」「パートナー」への窓口へとつながっている。皆様の心温かい応援/サポートをお待ちしています。

吉田和哉
http://www.astro.mech.tohoku.ac.jp/
https://www.facebook.com/Professor.Kazuya.Yoshida

 

2015.06.20

生殖医療 現状と問題点

日 時 平成27年6月20日(土)
会 場 仙台勝山館
演 題 「生殖医療 現状と問題点」
演 者 医療法人社団スズキ病院 スズキ記念病院
院長 星 和彦 先生

 

はじめに

2010年のノーベル生理学・医学賞は、イギリスの RG, Edwards 博士に授与された。ヒトの「体外受精-胚移植」(in vitro fertilization and embryo transfer ; IVF-ET) を世界で初めて成功させた功績に対してであるが、IVF-ET が不妊症の一般的な治療法として定着したことも評価されたと考えられる。

 

IVF-ET の臨床応用

ヒトでの IVF-ET  の試みは、実験動物での成功を受けて、1960年代に入ってから開始されたと思われる。ルイーズ・ブラウン嬢の誕生という朗報がもたらされたのは1978年イギリスからであった。36歳の卵管性不妊症の女性に対して行われたもので、報告したのは Steptoe & Edwards である。

 

IVF-ET われわれの取り組み

イギリスでの IVF-ET 成功の衝撃は大きく、わが国でも東北大学をはじめいくつかの大学で臨床応用への準備が開始された。

日本初の成功は 1983年にわれわれが東北大学から報告した。17症例目、35回の trial の結果であった。4例の IVF-ET による妊娠が東北大学で確認された後、慶応義塾大学 / 東京歯科大学グループ、次いで徳島大学から妊娠成功が伝えられた。

 

顕微授精法・卵細胞質内精子注入法 (intracytoplasmic sperm injection : ICSI)

IVF に要する精子数は卵子1個あたりおよそ50,000個と極めて少ない。そのため IVF-ET は男性不妊症にも応用される。しかし、必要とする 50,000個の精子も回収できない重度の男性不妊症は想像以上に多いことがわかっている。このような症例では IVF-ET といえども無力である。そこで男性不妊症に対する「新たな体外受精法」、いわゆる「顕微授精法」(micro-insemination) が検討されるようになった。

様々な「顕微授精法」が考案されたが、その中から「卵細胞質内精子注入法」 (intracytoplasmic sperm injection : ICSI) の確実性・安全性が立証され、「顕微授精法」といえば ICSI といわれるようになった。世界で初めての ICSI による児の誕生は 1992年 Palermo et al. (ベルギー) が報告しており、本邦ではわれわれが 1994年に福島県立医科大学で成功している。

 

生殖医療の現状

イギリスで世界初の体外受精児が誕生してから37年が経過し、「生殖補助医療技術」(assisted reproductive technology : ART) で誕生した児は、世界中で500万人を超えている。2012年の統計によるとわが国では1年間に約3万8000人の新生児が誕生している 。日本で生まれる 27人に1人は ART の恩恵に浴していることになる。しかし、問題が無いわけではない。他人の精子や卵子を用いたり、第三者の子宮を借りて妊娠するという事例も増加している。そして、様々なトラブルが毎日のようにマスコミに採り上げられている。

 

これからの生殖医療

35年前「体外受精-胚移植」の臨床研究に取り組んでいた頃には、現在のような「生殖医療」の状況は全く予想出来なかった。

今から35年後の「生殖医療」も全く想像出来ない。「再生医療」が導入され、体細胞から「配偶子」が作られるようになっているかもしれないし、着床前遺伝子スクリーニング (preimplantation genetic screening : PGS) は当たり前、遺伝子改変胚「デザイナーベビー」が現実になっているかもしれない。いずれにせよ慎重な検討は不可欠と考えます。

 

2014.10.23

実地医家に役立つ死体検案とAi(Autopsy imaging)

仙台オープン病院登録医会 秋季勉強会
日 時 平成26年10月3日(金)午後7時
会場 ホテルメトロポリタン仙台
演 題 「 実地医家に役立つ死体検案とAi(Autopsy imaging) 」
演 者 日本警察医会副会長 川口病院 院長 川口 英敏 先生

日本では東京都などの一部の地域にしか監察医制度がないために、ほとんどの都道府県でいわゆる“警察医”と呼ばれている一般臨床医が警察の要請を受けて異状死体の死体検案を行っています。死体検案によって死因、死亡時刻、死因の種類などを明らかにして正確な死体検案書を作成することは死者の権利を守るとともに、犯罪の発見や犯罪の見逃し防止のために極めて重要です。“警察医”は法医学を専門としている訳ではありませんが、異状死体を最初に診る医師として大きな社会的責任を担っています。

一方、最近の救急医療制度の充実により、救急医療現場における死体検案が増加しており、一般臨床医にとっても死体検案は身近なものとなってきています。本日は、熊本県警察から嘱託を受けた“警察医”として、および救急病院の臨床医としての二つの立場から、これまでに経験した事例を中心に死体検案とAiの実際についてお話をさせて頂きます。異状死体をどこで検案するか、誰が検案するかは、死体の発見場所や死体現象の有無によって異なります。一般的には、死体現象が出現していない場合には救急搬送されるために、搬送先の救急病院内で死亡確認後、病院内で警察による検視と救急医による死体検案が行われます。一方、明らかな死体現象が出現している場合は、発見現場や近隣警察署内の霊安室で、生前に死者を診ていた医師、あるいは近隣の“警察医”が検案を行います。死体検案の基本は、1)外表検査、2)既往歴などの捜査情報、および現場で実施できる3)後頭下穿刺による髄液検査などの簡単な医学的検査でしたが、当院では平成10年から、4)死後のCT撮影を取り入れ、平成13年からは心臓関連の生化学検査として、5)心筋トロポニンT検査、平成14年からは、6)BNP定量、さらに平成20年からは、7)NT-proBNP定量などを利用しています。心臓関連の検査としては、トロポニンTは死後変化があることが分かってきたため、死後変化が少ないと思われるホルモンであるNT-proBNPが、より有用な検査となりうると思っています。

当院で実施した検案におけるCT検査数の割合は、1998年は15.4%でしたが、徐々に上昇して2007年頃より約50%となり、2011年は66.7%、2012年は86.8%、2103年は79%となっています。最近2~3年のCT検査率の上昇は、以前から実施していた院内でのCPAOA事例でのCT検査に加えて、警察がご遺体を当院に搬送し、CT撮影後に検案を行う事例の増加によるものです。熊本県警が取り扱う異状死体全体でも、死後のCT検査率は、2007年では14.9%でしたが、2012年は62.8%、2013年は59.9%に上昇しています。

また、大規模災害などにおける死体検案は通常とは異なる対応が必要であり、地元の警察医会や日本法医学会など、災害規模により組織的に対応しなければなりません。そのためには持続的な訓練が重要です。熊本県の場合、熊本県総合防災訓練と熊本空港航空機事故消火救難総合訓練において熊本県警察、熊大法医学、熊本県警察医会および熊本県歯科医師会が連携して検視訓練を継続的に行っています。

平成25年4月には死因究明関連二法案が施行され、異状死の死因究明体制における検査などが明文化され、それを実施する検案医の役割がさらに重要となります。現在、日本医師会におかれましては、検案業務を医師が行う医業として再確認して頂き、死体検案研修会、Ai研修会をはじめとして、検案医の養成に力を入れておられます。それに伴い、私ども日本警察医会が以前より日本医師会に警察医の全国組織設立をお願いしていましたが、平成27年1月10日には日本医師会内に警察医の全国組織設立を予定される事となり、私ども日本警察医会も、それに協力する形で発展的に解散することを決定しています。

何れにしても、死体検案は医師が行う医学的検査であり、死後のCT検査(Ai)や生化学的検査などの有用性を確立して、最終的には「検案医療」として医療の一部に組み込まれ、より正確な死体検案が実施できる制度の確立が望まれます。

 

2014.07.28

iPS細胞技術が可能にする新しい医療

平成26年度登録医会総会・特別講演会

日 時  平成26年6月28日

会 場  勝 山 館

演 題 「 iPS細胞が可能にする新しい医療 」

演 者 東京大学医科学研究所幹細胞治療研究センター長 幹細胞治療分野 教授  中 内 啓 光 先生

 

21世紀の新しい医療として注目されている再生医療の成功の鍵を握るのが幹細胞である。代表的な多能性幹細胞であるES細胞は試験管内での増殖能でも、また多分化能の点でも最も高いポテンシャルを持つ幹細胞であるが、受精後1週間程度の胚を利用して作製するため患者からES細胞を作ることは難しく、倫理的な問題も伴う。ところが最近iPS細胞作製技術が確立され、患者由来の多能性幹細胞を容易に造り出すことが可能になった。

iPS細胞はヒト細胞の新しいソースとして創薬や毒性試験に利用できるだけでなく、献血に代わる血小板や赤血球等の供給源として(Nakamura et al. Cell Stem Cell. 2014)、あるいは遺伝子矯正治療や若返りさせた抗原特異的T細胞による新しい免疫療法(Nishimura et al. Cell Stem Cell. 2013)といった、全く新しい遺伝子・細胞治療を可能にする。さらに我々は腎臓や膵臓といった実質臓器の再生を目指し、動物個体内でiPS細胞由来の臓器を作出することを考えた。

既にラットiPS細胞由来の膵臓をマウス個体内に作成することに成功しているが(Kobayashi et al. Cell. 2010)、小型動物で示された原理がブタのような大型動物でも適応できるかを検証するため、遺伝子導入と体細胞核移植により膵臓欠損ブタを作成し、蛍光遺伝子トランスジェニックブタの胚細胞を移入して胚盤胞補完を行ったところ、胚細胞由来の膵臓を持ったブタが誕生し、正常に生育することを見出した (Matsunari et al. PNAS. 2013)。

これらの結果は臓器発生の機構を理解するための新たな方法論を提供するとともに、将来的に異種動物個体内でヒトiPS細胞由来の臓器を再生するといった、全く新しい再生医療技術の開発に貢献するものと期待される。

2013.10.25

登録医会秋季勉強会

仙台オープン病院登録医会 秋季勉強会

 と き:平成25年10月22日(火)午後7時

ところ:勝山館

 日本の国のかたち  

  -鎮守の杜と日本人の心の原風景-   

 仙台大学客員教授・宮城県図書館顧問    

 伊 達 宗 弘 先生

 

  

 

 

四海を海に囲まれ、自然災害に度々見舞われた日本人は、それを克服しながら粘り強い国民性をし、歴史や芸術・文化を時間をかけて熟成してきた。また四季の存在は、豊かな感性を育み、日本語の語彙(ごい)を豊かにし、優れた日本文学も育んだ。加えて木や草を素材とした家に住み紙一枚で外と接する生活を通し、自然の移ろいや鳥や虫の声にも常に親しみを感じその一つ一つのにも心躍らせる感性を培ってきた。生きとし生けるものに限りないしみをもって接し、大自然の一員として謙虚に振る舞うすべを心得ていた。

 今日の日本の伝統的な生活の大部分の原理を生み出したのは稲作であり、共同作業を通してお互いに助け合いながら生活をしてきたのである。稲作とは無縁な人たちの多い今日でも祭や、年中行事をはじめとするさまざまな儀礼においても形を変えながら稲作を基盤に生み出された信仰や呪術を継承している。

 神霊のまる場所として「鎮守の杜」がある。神社には森があり、神社境内の木々の中にも立派な老木がの対象となってきた。鎮守の杜は、地域の人々にとって神と交わる場所であり、情報交換の場であった。現在においてもそこで繰り広げられる祭りなどを通して、地域の人々の交流と賑わいの場を与えている。その神聖でな空間は、これからも人々にやすらぎと静けさを与え続けてくれることだろう。
 さらに日本独自の文化を育んだ背景には、千百年前、菅原道真の建言によって遣唐使が廃止されたことにより、国風文化が花開いた。とりわけ仮名文字の発明は女性や庶民が文学や歴史の上で活躍する基盤となった。室町時代には北山文化、東山文化が花開いた。能や茶道、華道、侘び、さびの世界が創出されるが、戦国時代に大きな危機に直面した。

  江戸幕府を開いた徳川家康は風流や趣味のための学問ではなく国を治めるために論理としての学問、倫理としての学問を重んじこれを奨励し、結果として朝野に多くの知識人を輩出した。江戸時代の泰平の二百数十年は、国風文化、北山文化、東山文化がさらに昇華され、また庶民の手によってさまざまな芸術・分化が花開き、世界に冠たる日本の文化を創り出したのである。閉塞感が漂っている時代だからこそ、先人の築いてきた歴史や文化を振り返り、誇りと自信を取り戻す必要があるのではないだろうか。

2013.06.30

平成25年度登録医会総会・特別講演会

平成25年度登録医会総会・特別講演会

●と き:平成25年6月29日

●ところ:勝山館

どくとるマンボウ家の素顔

~躁鬱病の存在を世に知らしめた父~

                               サントリー窓際OL・エッセイスト 斎藤由香

 

東北大学医学部出身の父、北杜夫のご縁で仙台記念オープン病院の講演にお招き頂きありがとうございました。私が医学について知見があるわけではありませんので、私の祖父である歌人の斎藤茂吉の話や、茂吉の妻・輝子のエピソード、父の躁鬱病のてんやわんやの日常などをお伝えさせて頂きます。

茂吉は十五歳の時、東京の青山にある斎藤病院の院長斎藤紀一(私の曾祖父)に請われ、山形から上京。院長の養子となり幼い輝子と夫婦になることを決められました。今年は「歌集『赤光』発刊一〇〇周年」になりますが、輝子とは夫婦別居十二年があったりしながら、関東大震災、先の戦争を歌人として、精神科医として、激動の人生を生き抜きました。

一方、妻の輝子も負けず劣らず波瀾万丈の一生でした。実家である東京青山の四五〇〇坪もある白亜の斎藤脳病院が火災で全焼してもめげず、二軒目に建てた病院も戦争で焼けましたが、戦後の貧困や食糧難にも家族で一番元気に輝いていたそうです。しかも、その後、二人の娘を逆縁で亡くしましたが、八十九歳で死ぬまで毅然としていて、その立ち居振る舞いは見事なものでした。私はそんな輝子の生涯を、新潮社から『猛女とよばれた淑女』と題して上梓しました。どんな逆境にも立ち向かい、人生を謳歌した祖母の姿を書き残したかったのです。

昭和二十八年に茂吉を看取った後、輝子のユニークな第二の人生がスタートします。彼女は非常に好奇心旺盛な女性で、七十九歳で南極、八十歳でエベレスト、八十三歳でアラビア半島一周、八十五歳でガラパゴス、八十七歳でセイシェルと、世界一〇八ケ国も旅行しました。そして、その次男である小説家の父は躁鬱病患者として、これまた変わった人生を過ごしました。私が幼稚園の頃、父は優しくて言葉遣いが丁寧で、家族同士でも、「ごきげんよう」と挨拶するような家でした。

ところが私が小学校一年の夏、突如として躁病になったのです。「チャーリー・チャップリンのようなユーモアあふれる映画を製作したい。シナリオも完成したが、映画を製作するには制作費が必要だと聞いているから、今日から証券会社で株の売買をします」と宣言。四社の証券会社と取引をスタートしますが、素人なのであっという間にお金がなくなります。新潮社や文藝春秋に「原稿の前借り」としてお金を借りようとしたり、友人である作家の阿川弘之先生、佐藤愛子先生、遠藤周作先生らにも借金をしようとする。母が、電話の受話器を奪って「あなた、いい加減にして下さい!」と叫ぶと、「喜美子は作家の妻として失格だ。阿川さんの家を見ろ!遠藤さんの家を見ろ!うちより、もっとひどいんだぞ!」と大声で怒鳴るので、「うちより、もっとひどいという阿川佐和子さんの家はどんなに大変なのだろう?」と、幼心に案じました(笑)。

 父の躁病は、夏に軽井沢で避暑をした後、九月に発症することが多く、母は「魔の九月」と言っていました。ある時は、「日本から独立したい。マンボウマブゼ共和国を建国したい」と、国旗やお札、コイン、国歌を作ったりで大騒ぎ。さらには、「文化の日のような『文華の日』を開催したい。遠藤先生に文華勲章、加賀まり子さんに大悪魔賞を贈呈したい」と、庭で園遊会を開催したこともあります。普通の家庭では味わえないような面白おかしい経験をしました。

 父は生前、「パパは作家としては大した作品が書けなかったけれど、躁鬱病を世に広めて功績はある」と笑っておりましたが、精神科医のなだいなだ先生も、「患者さんに、『北さんと同じ病気ですよ』と話すと、みなさん安心して、薬を飲んでくれました」と語られていました。

実は皆さんの前では言いにくいのですが、私は父の死に関して病院には相当の不信感を抱いてしまいました。夜中に父は急に嘔吐したので、世田谷区の駒沢にある大病院に入院しました。救急病棟で一応の手当すると若い医者(後で分かったのですが初期研修医)は「今夜、お父様は入院されます。大事には至らないので大丈夫ですからお帰りください」と言う。私たち家族は会話の出来る父に「明日月曜日に会社の後、またお見舞いに来るからね」とさよならをして、「今朝、嘔吐したので窒息死しないよう注意して下さい」と医者に言い残して帰宅しました。ところが明け方、病院から電話があり、すぐに来るように言われたのです。急いで病院に駆けつけたところ、医者から「見回りに行ったら心臓が止まっていた」と説明され呆然としました。心臓マッサージ中の父を見ると、前日、入院した際、看護婦さんが母に「浴衣に着替えさせるので浴衣を買ってきて下さい」と言っていたはずなのに、入院した時のポロシャツ姿のまま。しかも嘔吐で汚れていたのです。さらに「解剖するとガッと開けて、葬儀には帰宅できません」と脅かされ、解剖をしなかったので死因も判然としませんでした。

その後カルテ開示を求めたり、病院側の説明も聞きましたが、カルテの書き込みにも、霊暗室からの見送りもなかったのに、「責任を持って見送った」と書かれ、嘘があり釈然としないままです。助かったはずの命が助けられなかったと思うと、未だに悔やまれて悔やまれてなりません。

お医者様や病院関係者の方々は、日々患者さんの対応で大変かと思いますが、少しでも人の心を感じ取る医療を心がけていたければと思います。

2013.02.14

登録医会秋季勉強会

仙台オープン病院登録医会 秋季勉強会

国際会議における交渉力 IWC(国際捕鯨委員会)などの経験から

 と き:平成24年10月19日(金)午後7時

ところ:勝山館

政策研究大学院大学客員教授 小松正之

            

 

 

 

日本の閉塞感と国民の不満

日本国内の閉塞感について語られる。外国からの追い上げと政治のリーダーシップの欠如が著しいからだ。竹島、尖閣列島と北方領土の領有権の問題やTPP(環太平洋経済連携協定)に関して日本が、弱腰な外交を繰り返していることも問題である。国民の多くはこのような政治家や国家公務員を変えたいと望んでいる。私は、農林水産省の水産庁に1977年に入省し16年間国際交渉に従事した。日本国民の生命と財産の保全をすることが重要だった。

200カイリ時代の水産外交―米国とのさけます交渉の敗北

最大の難関が、米国の200カイリと旧ソ連(ロシア)の200カイリ内で操業する北洋のさけます漁業であった。この漁業は日露戦争で得たロシアの沿海州などの漁業権に歴史を持つ。戦後も一貫して旧ソ連からさけます漁獲割当量を確保した。しかし、漁場が、米国の200カイリ水域のアリューシャン列島沿いで、米国から、操業の許可をもらう必要があった。ところが、米国はクジラの保護に過剰な国で、海産動物保護法というイルカやクジラ捕獲禁止法がある。さけます漁業は使用する流し網に混獲されるイシイルカとオットセイの混獲許可を米国政府から得る必要があった。そのため、米国商務省行政裁判所の公聴会で、証言プロセスを経た。水産庁を中心に代表団を編成し、約十人が証言をするが、通訳やサポートスタッフを入れて全員が極度の緊張感だった。ある科学者が証言の最中に環境団体から証拠として流し網が持ち込まれた。実際に沖で操業に使われていた網だったが、科学者が、日本船に勧告していた網とは異なった。科学者が、証言に窮し、その夜対応ぶりを話し合った。業界の代表は科学者につじつま合わせの証言の要請をした。私は、それでは、その人は科学者生命を失うと反対した。その意見に対して業界人が、反発したので、私は灰皿をホテルの一室の床にたたき付け、いい加減にしろと言い返した。過度の緊張と激務で泣き出す通訳まで出ました。通訳の一人が、「ハリーポッター」の翻訳でその後一躍有名になった静山社の社長、松岡裕子氏であった。松岡氏は代表団の優秀な通訳だった。私は、商務省行政裁判所長より、3度の証言はすべて英語で行うように命じられた。

 

米国との敗北に学ぶ豪ニュージーランド交渉

日本の伝統ある母船式さけます漁業は、米200カイリから締め出された。オットセイの混獲許可証が出なかったからだ。脱力感に襲われた。この教訓を生かすのは、13年後の1999年の豪ニュージーランドとのミナミマグロ交渉のときである。私は1995年からこの交渉に参画した。この委員会はコンセンサスでないと何も決められない。コンセンサスとは困った意思決定方式である。一国でも反対すると、何も決まらない。豪とニュージーランドの反対に合い日本は、長い間、漁獲割当の増加を達成できないでいた。痺れを切らした日本は、漁場にミナミマグロがたくさんいることを証明する「調査漁獲」を自国の責任で実行した。ミナミマグロは、公海上で漁獲される。これを永続的に漁獲するために、豪200カイリ内のメバチマグロ漁業の操業を棄てた。苦渋の決断であった。一つを永続的に得るために、短期的な利益は捨てる。その鉄則を、米200カイリのサケマス漁業交渉から学んだ。行うは難し。その結果、今でも日本のミナミマグロ漁業は、継続している。

 

孤立した捕鯨交渉―ゼロからの出直し

私が、1991年イタリア・ローマから帰国し、捕鯨担当者の任命をされた。私は、それまでイタリア・ローマ在日本大使館一等書記官として、国連食糧農業機関(FAO)の国際会議に参加していた。当時の上司は「小松君はローマの休日を過ごしたのだから捕鯨の担当として活躍してほしい」とのこと。私は「捕鯨など風前の灯で今更、意味はない」との気持ちだった。1992年、国際捕鯨委員会(IWC)では味方の国がほとんどいなかった。捕鯨国は日本、アイスランド、ノルウェーとカリブ海諸国3か国の合計6か国である。反捕鯨国は米、英、蘭と豪など20か国を数えた。何をIWC総会で発言しても、日本の代表の発言は無視された。

反転に転じた捕鯨委員会での日本

基本的なことから、対応を変えた。会議を公開にした。直接、プレスが日本の発言やIWC本会議を直接たしかめてもらえた。ところで、日本は調査捕鯨の調査計画と結果を厳しく批判された。たとえば、「南氷洋の調査捕鯨では0~4歳のクジラが捕獲できないなら、調査捕鯨をしている意味はない」と。これは日本の科学者には相当こたえ科学者でも日本の調査捕鯨も終わりかと考えたようだ。しかし私はむしろ、これは宝の山と考えた。これで調査捕鯨を拡充すればよい。0~4歳の若齢のクジラが生息する海域に調査捕鯨船を出航、捕獲頭数も330頭から440頭に拡大した。翌年には、米国の科学者が日本の太平洋近海のミンククジラは沿岸から沖合まで4~5グループからなると言い出した。太平洋のミンククジラは1の系統群に決まっている。日本の沿岸捕鯨の再開を、意図的に不可能にしようとした非科学的な主張であった。米国の主張が正しいか証明するために、調査捕鯨を開始した。DNA遺伝子を徹底的に調べた。このように1995年から北西太平洋で初めて調査捕鯨を開始した。サンプル数はミンククジラ100頭であった。これから反捕鯨国は、簡単に日本の調査捕鯨に難癖をつけることをやめた。

俺に話させろ」が一躍有名になったIWC下関総会

2002年下関でのIWC総会。アイスランドの加盟と米国の原住民生存捕鯨の捕獲枠が大きな論点となった。私の発言中に、割り込んだ米国に対し「Let me speak」(俺に話させろ)と発言したことが、大きく取り上げられた。アメリカを黙らせたとのことらしい。私にすれば当たり前のことだ。発言を遮ることが失礼なのだから。またこの会議では米の原住民生存捕鯨の捕獲枠を止めた。それはアラスカの北極鯨資源が悪いからだ。日本の沿岸捕鯨の再開に反対しておいて、自分たちには甘い。このダブルスタンダードを質しただけだった。

交渉の下積みが重要―国内の意見のまとめが重要

しかし、国際交渉の仕事のほとんどは国内の対策に明け暮れる。国内で準備をして、意思決定である、内閣総理大臣、外務大臣、農林水産大臣に説明し、その同意と指示を得る。これが大変である。だれが事実上率先する。リスクの高い仕事だ。それを長い間13年間、私自身が行った。良い提案があってもそれを、政府の公式な意思決定としなければそれは「無」である。多くの役人は、官邸で、批判され自分に傷がつくと恐れる。強い国際交渉には、保身や、昇進を考え見ない、リスクを負うことを厭わない、役人が必要だ。

国際交渉のかなめ、強いリーダーシップと実力の行使

誰かがリーダーシップをとらなければ、外交交渉はできない。最近のTPP(環太平洋経済連携交渉)や尖閣列島と竹島の領有権をめぐる交渉でも、明確な内容の方針を樹立して、進めようとの政府の姿勢がない。国内への影響、外国の意見などを総合的に分析することが重要である。また、捕鯨の場合、 米国は、経済的制裁を示唆したが、対抗手段も日本として必要である。言葉だけで、外国は、日本の主張を聞くことはない。調査捕鯨の拡大など、実力を持って示さなければ、相手は真剣に取り合わない。ミナミマグロのケースでも、日本が100隻の漁船団でオーストラリア大湾の沖で、一方的な操業をおこなったから、日本に敬意を示した。尖閣諸島や竹島でも、実力行動の可能性を明確に示すことが大事だ。また、相手に他の案件とリンクさせない方向を明確にすることも大事だ。

敵をしり、己を知る。そして、敵ともコミュニケーション

また、中国が問題を真剣に取り上げようとしているのか、政府の内部と、国民のメンタリティーの分析も必要だ。豊かになり、女性の力が強くなり、外面を日本以上に気にする中国が本当に日本と事を構える気があるのか。「尖閣諸島には領土問題は存在しない。」との意味不明瞭な役人の答弁そのままの、発言をする政治家も問題だ。国内への情報の提供も強い日本を創る。外国政府と非公式な話合いが重要だ。TPP交渉ではコメは適用除外になることが、明らかである。砂糖や乳製品でも合意できる枠組みがある。それを外国から情報として事前に得ることが、真の外交力。それが日本の外務省と農水省の役人にないとすれば、再訓練と人事の刷新が大事だ。政治家も役人も国のために働く人材が必要な時だ。リーダーシップの発揮は政治家や役人や名誉ある職業人にとっては身の保全上、危険だ。しかし、危険を承知でも、国のためにリスクを負う人がいなくてどうする。日本も現在は持っていないが、米やOECD加盟国のように政府や大学に、リーダーシップや交渉の研修プログラムを持たなくてはならない。そこで大局観や国家感を教える。国民と国家のために尽くすことが、人の醍醐味であるし、人に貢献する職業に多くの人は就きたいと思っても就けないのだから。

日本人のDNAにも流れる、社会に貢献するリーダーシップの心

日本人にも、多くのリーダーがいた。命も顧みず、志半ばに倒れたがその人たちの築いた礎の上に、明治近代日本を建設した。坂本竜馬、大久保利通、西郷隆盛と伊藤博文と原敬などの力で現代日本がある。戦後は吉田茂、盛田明夫と井深大、松下幸之助などの人々の力で現在がある。日本を良くしたいDNAは日本人に備わっているが不活性化しているのが、現在の日本であると考える。今こそ、リスクを負ってでも世のため他人のために、自分ができるリーダーシップを発揮したい。リーダーシップを発揮する人がいたら支援したい。その心がけと思いが、日本を変える。震災地の復興も単なる補助金配りでなく、若者が30年夢を持てる新しい社会を実現する制度と政策を作り実行する政治家、官僚とそれを支える有権者の出現が今だからこそ期待される。

2012.09.07

平成24年度登録医会総会・特別講演会

東日本大震災と津波対策

●と き:平成24年6月30日

●ところ:勝山館

 東北大学

名誉教授 首藤伸夫

 日本人の自然災害への対処方法は、1960年を境として変化する。所得倍増計画により、経済的な余裕が出来、防災構造物の建造が可能となったからである。それまでの自然に逆らわない住み方から、自然に立ち向かう方法に変わった。そして、それには限界のあることを忘れて行った。

1896年明治三陸大津波では、地方名望家の主導による高地移転が主であったが、10年もすると浜との往復に耐えかねて、僅かな例外を除き、元の低地に戻って行った。このとき、津波被害者の特殊な病状として、「砂や泥を含む海水を急激に肺内に吸引し、機械的な損傷を起こした」細気管支炎が初めて記録された。

1933年昭和三陸大津波後は、国・県の主導による高地移転が行われ、釜石・田老など5か所では、防潮堤が作られた。

1960年チリ津波後は、構造物建造が津波対策であった。チリ津波対策緊急事業が終了した直後、1968年十勝沖地震津波が襲来したが、構造物がほぼ完全に働いた。これを見て、構造物で対処出来るとの考え方が一般的になる。

1993年北海道南西沖地震津波の時、奥尻町青苗5区では、防潮壁は無傷に近かったが家屋は全部流失した。これを受けて、津波対策は「防災構造物、津波に強いまちづくり、防災体制」を組み合わせる事となった。救援に駆け付けた医師がPTSDの治療が必要と確認し、1995年の阪神淡路大震災では、当初から取り組まれる事になる。

2004年以降は、ハザードマップが各所で作成され、津波危険地帯の認識が進む。

このように、構造物である程度の津波は防ぐが、いざとなれば危険地帯の外へ逃げる、大きな地震は津波の前触れ、と防災教育がなされて来た東北地方で、白昼の大地震であったのに2万人近い犠牲者が出たのはなぜなのか。

避難しなかった人の半分は、これまでの地震では津波がなかったからと云う。釜石市鵜住居では、予想浸水域のすぐ外の住民の死傷率が極めて高かった。与えられた情報によりかかり、目の前の現実を見て行動することを忘れたからである。唐丹本郷では、昭和津波の経験者である祖母、その話を聞いて育った母、は共に高地に住みながらすぐ避難したが、低地に住む孫は高い防潮堤があるからと油断して津波につかまった。

高地に住む、与えられた情報を盲信しない、自分で見て行動する、これが何時の世も変わらない、津波の難を免れる方法である。

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